「マッサン」と小樽龍宮神社

2014年11月11日 20:34




※写真は、2008年8月9日に龍宮神社を参拝された麻生太郎自民党幹事長と、宮司さんの空手の弟子たちとの集合写真です。因みに、宮司さんの後ろに居るのは小生です。



●「マッサン」と小樽龍宮


■NHKの連続テレビ小説「マッサン」の舞台が、そろそろ余市町のニッカウイスキー工場に移り、余市へ観光客が押し寄せると思っています。余市工場内では原酒を試飲させていただけますが、驚くほど美味しいですよ。


新刊本『ひと目でわかる「慰安婦問題」の真実』の6ページで榎本武揚に少し触れましたが、榎本が建立した神社が小樽にありますので、ニッカウイスキー余市工場に観光で行かれる皆様に、是非、参拝していただければ幸いです。


下記は、以前ブログにアップした記事ですが、参考に再掲載します。


●明治維新を現在に重ね合わせ、日本再興の聖地は、すでに北の大地の小樽に入魂されております。。


それを説明するには、榎本武揚が小樽に建立した龍宮神社の歴史から始めなくてはなりません。現在、坂本竜馬など明治維新期の英雄伝が空前のブームになております。


小樽の発展は、戊辰戦争と密接な関係があります。
それは、戊辰戦争で賊軍の総司令官榎本武揚が、明治政府から明治5年1月6日、出獄を許可されたことと深い関係があるのです。
同年3月8日に釈放されていた榎本武揚は、北海道開発庁開拓使として徴用され、北海道の鉱山を調査担当するため、元官軍の北垣国道と賊軍の榎本武揚は小樽に立ち寄りました。

その時、榎本武揚は、オランダ留学の経験から、小樽が自然な良港になると確信して、北垣と共同で小樽駅周辺の20万坪の土地を明治政府から払い下げを受け、明治6年に土地開発を目的に「北辰社」を設立しました。

榎本は、その代表に元彰義隊士の大塚賀久治(霍之丞)を就けました。

大塚は、戊辰戦争に敗れたとき、榎本が自決するのを止めた人物です。

榎本武揚は、明治政府に徴用された後、戊辰戦争に敗れた会津藩士の生活のために尽力したことは、榎本が小樽の土地の権利を得た、小樽駅から海を見て左側に数多くの会津藩士を入植させたことで明らかなのです。因みに、その地区の友人の曾祖父は会津藩の家老でした。また小樽には、新撰組第一位の剣豪と云われた永倉新八も移り住んでおり、小樽で口述した「新撰組顛末記」を遺されたことで「燃えよ剣」など、新撰組の実態が後世に伝承されることになったのです。

榎本が得た土地に、「梁川通り」があるが、それは榎本武揚の雅号「梁川」から付けられ、同右側は、北垣国道の雅号「静屋」から「静屋通り」と名付けられています。


榎本武揚が建立した小樽龍宮神社は、明治9年に創建されたが、当然のように小樽駅を出て左側徒歩3分の稲穂3丁目22番11号の丘の上にあります。龍宮神社の神宝に榎本武揚が、北海道の安寧を祈り「北海鎮護」の扁額が掲げられています。尚、龍宮神社は、明治14年に明治天皇が北海道を巡幸したときに随行した有栖川宮が小樽に立ち寄ったときに命名されました。

榎本武揚を小生が尊敬できるのは、恥を忍んで明治政府に身を預けても、同士の生活のために終身尽力したことです。

小樽に「北辰社」を設立したころと同時期、東京千代田区飯田橋に「北辰社牧場」を開場していたことだ。そこで日本初の牛乳が産出したことも特筆すべきことなのです。

そして、オランダ留学から持ち帰った「万国公法」を翻訳した知識が、明治政府を助け、日本の名誉を守った実績として、マリア・ルス号事件裁判を担当して勝訴したことです。

※マリア・ルス号事件とは、明治4年、ペルー船籍の奴隷船でアメリカに運ばれる清国の「クーリー231名」を、横浜に停泊中に助け出し、中国へ送り返したことを不服として、ペルー政府が明治6年、国際法廷に提訴した事件です。

その後、榎本武揚は、明治政府に重用され外務大臣・文部大臣・逓信大臣・農商務大臣などを歴任されました。

それにも拘わらず、榎本武揚が建立した龍宮神社には、2008年8月9日に麻生太郎自民党幹事長(当時)が参拝するまでの間、薩長閥に連なる政治家や政府高官の誰一人として参拝した者がいませんでした。


※小樽龍宮神社境内の榎本武揚の銅像の周りの「オンコ」と「桜」は、麻生太郎自民党幹事長が植樹されたものです。また、その横の祠の周りにある桜は、中山成彬先生と中山恭子先生が、ご一緒に植樹されたものです。




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※ジャーナリスト水間政憲;インターネットだけ転載フリー〈条件・全文掲載〉http://mizumajyoukou.blog57.fc2.com/